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クマにあったらどうするか?ハンターのすすめる10か条~熊は危険か?共存は可能か?

ノンフィクション

クマにあったらどうするかーーーあなたならどう答える?逃げるか戦うかそれとも・・・本物のハンターが語るクマと人間のノンフィクション。

2019年11月17日に東京都八王子市上川町の上川口小学校付近で熊の目撃情報があった。

クマとの遭遇をどれだけの人間が想定して生活しているだろう。

クマとあったら、死んだふりをする、木に登る、走って逃げる、武器で応戦する・・・

これだという答えを持っておくことの重要性は、熊出没のニュースの度に気に留めながらも、深く追求することなく令和元年までを過ごしていた。

しかし、この本と出会った。

一見可愛らしいクマのイラスト。

この意味が(親子グマであるということにも)この本を読み終わった時どう変わるだろう。

何の気なく、一応読んでおくか、くらいに手にとった本。

まさかこの本で数度泣かされるとは。

これだから、本との出会いはやめられないのだ。

これは「生きる」とは何か。それを真剣に問う物語だ。

アイヌ民族最後の狩人 姉崎等さんが自分の人生の全てで語ってくれる貴重な話の数々

「クマは私のお師匠さんです」

出典 クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎 等  姉崎 等 (著), 片山 龍峯 (著)

クマを知らなければクマは撃てないという。

そのクマの生体、さらに思考回路を、姉崎さんは伝承されてきたのではなく、

自分の足でクマの足跡をまさに文字通り追い続けることで、山を知り、クマを知っていった。

山をどう歩けば効率がいいか。どこにきのこが生えるか。クマが全部教えてくれた。

北海道出身。アイヌ民族と名乗る姉崎さんだが、福島県出身の父とアイヌ民族の母を持つ混血(ハーフ)と言われる存在だった。

ゆえにアイヌ民族として狩猟の伝統を教えてもらえず、冷遇されながらも、

小3で一家を支える必要に差し迫られ、必死で大人たちの見様見真似、会話を盗み聞くことで、狩猟の知識を得て、山に入っては山菜や小動物を採ってきて街で売る生活。

胸に刺さった言葉がある。

私はよく言うんです。クマより怖いのは貧乏だよって。クマやお化けが怖いって言う人は、まだ余裕があるんだって言うんですよ。私にはそんなことを言う余裕がなかったんです。貧乏の方がよっぽど怖いんですよ。

出典 クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎 等  姉崎 等 (著), 片山 龍峯 (著)

戦前の少年時代。

生きるため。家族を養うために始めた狩猟生活。

12歳から77歳まで65年間をハンターとして生きた。

この本はクマについて書かれている知識も重要であるが、それ以上に姉崎さんの人生の記録である。

何もない時代。山が恵みをくれた。

だから生きて来られた。

それゆえ、山への敬服。

その山を教えてくれたクマへの感謝が根底にある。

クマを愛しクマを撃つ。

その一見矛盾した生き方。

だけれどそれが「生きる」ということなのだ。

 

子連れで瀕死のクマが一番怖い。クマだって死んだふりをする。

65年のハンター生活。

もちろん姉崎さん本人も、命の危機にさらされる場面に遭遇してきた。

銃を持つハンターでも無敵ではない。

こちらへ飛びかかろうとするクマを一発で仕留めるのは至難の業。

一発が心臓に命中しても、それが致命傷になったとしてもそこからまだ暴れて人間の命を奪うだけの余力があるのがクマの体力・生命力なのだ。

次の2発目を仕込む時間も与えてはくれない危機一髪の場面は、姉崎さんの語りもかなり熱が入り、

読んでいて臨場感たっぷりで、まさにクマと対峙したような気にさせられた。

手負いのクマが一番危険だという。

それも子連れの場合はさらに、クマの方も土壇場の底力を発揮してくる。

死んだと思って人間が近づいて、逆に殺られるパターンが多いという。(ハンターでない限り瀕死のクマに会うことは難しそうだが。)

クマの「生きよう」とする執念の恐ろしさを侮ってはいけない。

走って逃げられないほどの手負いのクマは、逆におとなしくじっと動かずに、起き上がらなくても爪が届く距離まで人間が確認しに来るのを待っている。クマはそれほどに知能的な動物だからだ。

 

山は動物のもの?人間のもの?

クマが街に降りてくる、という。

しかしもともとクマは山奥よりも里に住む動物だという。

クマにも階級があり、体が大きく、そう大きくなるまで生きてこられた徳の高いクマ(人間の近くで暴れたりしなかったため)は、山の高いところに住む。

それだけ厳しい斜面でも生きていけるのは上位のクマだ。

一方里付近にいるクマは親離れしたばかりの若いクマが多く、親離れした寂しさから、里に近づくことで人間の気配で安心しているのではないかという見解もあるそうだ。

しかしそれだけ人間の近くにいつもいながら、めったに人間を襲おうとはしない。

それがクマの本来の性質。

本当は人間のいる街になど降りてきたくはない。

けれども、森林の伐採や植え替えで、クマの主食であるどんぐりのならない山が増えた。

駆除か防除か、未だ人間とクマの共存の方法はそれを探り続けている途中である。

クマの気持ちがわかる。ということ。

瀕死の重傷のときこそ一番怖いわけです。普通死んでしまうとケモノというのは毛が寝てしまうけど、まだ毛並みがフワーっと立っているときはまだ相手の精神までは死んでいないんですよ。相手がまだ逆襲するんだという意気込みがあるときに毛並みが立っている。

出典 クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎 等  姉崎 等 (著), 片山 龍峯 (著)

姉崎さんは、クマの気持ちがわかる。

撃たれても精神まではまだ死んでいない。

逆襲するんだという意気込み。

人間基準で考えてしまうとそこが間違えやすいのではないか。

人間ならあれだけ痛手を負ったら先にあきらめてしまっても気絶してしまってもおかしくない。

「人間なら」で考えて行動してしまうとクマと対峙する場面では命取りになりかねない。

「クマならどうするか」それがわかるから、姉崎さんは、ハンターとして怪我もなく65年間生きてこられたという。

繰り返し姉崎さんはいう。

「クマはすぐに人間を襲わない。」

どちらかというと、人間のことを嫌がっているのがクマ。

大きな木を切り倒したり、銃を撃ったり、速い車で山を走ったり、そういった人間を観察して恐れていると。

だからクマとしても、人間に近づきたくはない。だからこれ以上くるなと、足で警告音を鳴らしたりする。

普通のクマは草食で、人間を食べたいとも思っていない。

クマが危険を及ぼす態勢になるのは、「餌を取られた」とか、「子供を連れて行かれる」などと、人間のほうが勘違いさせてしまったときだ。

クマも人間に会いたくない。

気になるから観察はしているけど会いたくはない。その距離感。

クマと人間は近づきすぎてはいけない。

別々の世界で生きる生物どうしとして、無視してあげながら距離感を持って生きることがクマと人間との共存のかたちだという。

それを崩してしまうものとはなにか?

 

 

 

 

クマを街に呼んでくるのは人間

山でのマナーをもし人間が100%守ることができるなら、クマとのお互いに安全な共存も夢ではないという。

しかしながらそれは叶わない。

なぜなら、「ルールを守る」という習性は、人間には完璧に備わっていないから。

荷物を減らしたいから。こんなゴミひとつでこの大きな山に影響が出るわけがないと思ってしまうから。

人間がバーベキューしたあとのごみ。

甘いジュースの缶。

人間がわざわざ、クマに教えているのだ。

人間はこんな美味しいものを持っているよと、わざわざ餌をばらまきに行くように。

だから街にクマが降りてくる。

誘い出したのは人間の方。

全体で見れば。

けれども実際は、そうやってレジャーでゴミを捨てていくのは地元の人間ではなく旅行者が多いそうだ。

クマにえさやりをしてしまうのも、都会から来た観光客。

そうやって、覚えなくてよかった味をクマに覚えさせ、いざクマが降りてきたときに危険なめにあうのは地元の人という悲劇。

自分を律する力が、完璧ではないのが人間。

今後も、起こるべくして起こる人間とクマの接触は増えていくと姉崎さんは語った。

実際にクマにあったらどうするか?姉崎さんのすすめる10か条

【まず予防のために】

一 ペットボトルを歩きながら押してペコペコ鳴らす。

二 または、木を細い棒で縦に叩いて音を立てる。

【もしもクマに出会ったら】

三 背中を見せて走って逃げない

四 大声を出す

五 じっと立っているだけでもよい。その場合、身体を大きく揺り動かさない。

六 腰を抜かしてもよいから動かない

七 にらめっこで根くらべ

八 子連れグマに出会ったら子グマを見ないで親だけを見ながら静かに後ずさり(その前に母グマからのバーンと地面を叩く警戒音に気をつけていて、もしもその音を聞いたら、その場をすみやかに立ち去る)。

九 ベルトをヘビのように揺らしたり、釣り竿をヒューヒュー音を立てるようにしたり、柴を振りまわす。

十 柴を引きずって静かに離れる(尖った棒で突かない)。

出典 クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎 等  姉崎 等 (著), 片山 龍峯 (著)

クマの習性も、時代とともに移り変わり、鈴や笛の音を鳴らして歩くという昔ながらのクマよけの方法も慣れから効果が薄れてきたという。

ペットボトルの音は、新たにクマが嫌う音として登場した。

しかしそれも、時代が進めばまた慣れるときはくるだろう。

けれどもクマの気持ちに立って、「人間と会いたくない」という心理に働きかけてあげるため、「人間はここにいるよ」というアピールをすることは有用だ。

走って逃げないというのは、意外とやってしまいそうな事例だが、

複数人がクマから走って逃げた時、一番早く走った人がやられたという事例があったという。

子連れグマは、子が連れ去られるのを怖がっているので、子の方はみないでおく。

クマはヘビを異常に恐がる。叩いて、もうヘビは死んでいるのにその後も叩き続けるほど。

そういった姉崎さんの語るクマの習性を見ていくと、とても警戒心の強い動物であると思えてくる。

だからやたらに人間を襲うことはないと、必要以上にクマを恐れないよう呼びかける。

 

「生きたい」その気持ちはクマも人間も同じ

戦前から、一家を養うために山へ入って狩猟をし、取れた獲物を売って家族の命を繋いできた姉崎さん。

クマのハンターになったのも、当時は高値で売ることが出来て、生活の支えになったから。

現代でみればハンターと言う仕事に縁がある人は少なく、なかなか理解されないかもしれない。

けれどほんの数十年前まで、海で魚を釣るように、山で獲物をとって食料としてきた我々人間の暮らしは普遍的なものだった。

すべては、生きるため。

獲物を獲て、命をつなぎたい人間と

人間から逃げて命をつなぎたいクマや動物たち。

対人間じゃなくとも、その生命と生命の対峙は地球上で繰り返される。

もし自分の街でクマが駆除される時何を思うか。

今となっては、毛皮がほしいわけでも、どうしてもクマを食べなければ繋げない暮らしでもない。

駆除のニュースの際には「何も考えずに何故撃つのか」そういった声もあがっていた。

しかし、これだけは言える。

何も考えていないはずがない。

クマを撃つ人は、クマのことを、誰よりも分かっている人だから。

逆に、クマのことを何も考えていない人に撃たれるほど、クマだって愚かではないのだから。

クマを知り尽くした人にしか出来ないその仕事。

山に返せないと判断したクマの命を絶つ。

辛くないはずがない。

その時、何を思えばいいのか。

生き残りたいのはお互いに同じ。

クマ一頭分の命で、その街の住民の命を助けている。

それは数で対比できるものでもない。

けれど、クマの命をどう受け止めたらよいか必死で考え、私達が生き残ることを選んだのだと、そのことを忘れずに、代わりの命を生きなければならないのではないか。

クマと一生を通して向き合ってきた姉崎さんが語ってくれたこの本の中にあるのは、

命、その重さそのものだ。

 

 

 

本の素晴らしさと伝承者への感謝

改めて思う。

この本を書き残してくださらなければ、こんなにもありありと、ときに生々しいほどのクマの生体、そしてクマと人間という命の対峙、姉崎さんという人の命の輝きに満ちた人生の物語を、私は知ることがなかった。

ふと、何処かで講演などがあれば聞いてみたいなどと思ったのだが

著者のお二人共が、お亡くなりになっていた。

おじいちゃんの昔話を聞いているような親しみやすさで、夢中になって聞く子供のように一気に読んでしまった。

インタビュアーの片山 さんの文章も、本当に読みやすくすっと心に入ってくるし、3年もかけて、同じ質問を納得ゆくまで掘り返してみたりと、この濃密な体験談という貴重な文献に急にぶち当たった私は、本との出会いに、お二人との時空を超えた出会いに、感動しっぱなしでいる。