【クルエラ】悪役に惹かれる理由とは!?ディズニー史上最凶のヴィラン実写化
悪役の活躍に胸がスカッとすることがある。
それは何故だろう?
その大胆な行動に、無慈悲な遂行力に、エンターテインメント性を感じてしまうことがある。
実際の社会で、暴力、犯罪、そんな目に出くわすことは避けていたいのに。
ヤクザ映画、支配勢力の抗争、闇の社会の陰謀・・・
そういった映画やドラマなどを見る時のスリルとワクワク感はどこからくるのだろう?
少し日々に煮詰まって、このもやもや感を晴らしてしまいたい。
そんなときに、U-NEXTをスクロールしていると、
「ワルい魅力ってこういうこと!悪役の魅力」という特集があった。
そそるキャッチコピーだ。
https://video.unext.jp/browse/feature/FET0002165?genre=movie
「ハンニバル」「ヘル・レイザー」「プラダを着た悪魔」などとともにあったのが
「クルエラ」だった。
ラ・ラ・ランドのエマ・ワトソンが演じる
あの、ディズニーアニメーション映画『101匹わんちゃん』の
悪役・クルエラの前日譚。
一瞬たりとも飽きさせない、めくるめくエンターテインメントにどっぷりと浸かれて幸福な134分だった。
(以下、ネタバレを含みます。)
名探偵コナンでも「黒の組織」が好き。
私の机には、いつでも眺められる正面に、
名探偵コナンの黒の組織のクリアファイルが貼ってある。
ジン・ベルモット・ウォッカ・キャンティ・キール・バーボン・・・
(みんな強めのお酒の名前というのが格好良い…!)
何故貼っているかというと、
黒の組織のメンバーに対する憧れと尊敬があるからである。
私は本来怠け者だ。
本当に興味のあること、好きなことしか頑張れないし、
それすら怪しいときもある。
けれど、黒の組織の中に怠惰な人はいない。
みんな物凄く、真面目な人達だ。
「あの方」に忠実に、目的を達成するために日々計画を練っては
抜かりなくそれをチームプレーで遂行していく。
その行動力に、緻密さに、プロフェッショナル集団というかっこよさに惹かれてしまう。
だから、机で仕事をするときは、
「黒の組織のように」ぬかりなくやり遂げようと
ジンのアニキの鋭い眼光がこっちをみているクリアファイルに、
火をつけてもらい、怠惰にならぬよう監視してもらっているのだ。
「プラダを着た悪魔」のような、クルエラのサクセスストーリー
そんな悪役好きの私は、「クルエラ」を見始めてもうすぐに、
心を持っていかれた。
おまけに、なにもないところから這い上がっていくというサクセスストーリーが好物なのだ。
それも、業界もの、職業ものが特に好き。(アオイホノオ然り。)
孤児となったクルエラが、己のセンスとガッツでファッション業界に食い込んでいく様子は、
映像も華やかで、クルエラの飾らないキャラクターがコミカルで、
イギリスの街並みもオシャレで、ずっと見ていたいと思う世界だった。
同じくU-NEXTの悪役特集に組まれていたが、
「プラダを着た悪魔」が好きな人なら、絶対に楽しめると思う。
それに、「オーシャンズ8」が好きな人にもきっとハマる
華麗なショーのように奇想天外でスマートな犯行の数々。
泥棒の日々がファッションデザイナーの素質を高めていた。
泥棒の行為自体は許されることではないのだが、
孤児の頃から生きていく手段になってしまっていた「盗み」。
同じく孤児の二人とチームで、年々手練になっていく。
丹念な下調べ、緻密な計画、ぬかりない遂行力。そして大胆な犯行。
人を欺くためのコスチュームづくりで、裁縫の腕を上げたというのもあるが、
この泥棒のスキルを高めていく日々は、ファッションの世界に飛び込んで、ドレスのデザインをすることにも役立ったはずだ。
着る人物のサイズを細かく採り、
丹念に細部までデザインする。
デザインしたものを、再現し3Dに仕立て上げる実行力。
それにだれよりも大胆奇抜なファッションセンス。
やむを得ない「泥棒」時代の日々があってこその
デザイナーとしての躍進だったのだと思う。
はみ出しものクルエラ、ファッション業界へ忍び込む
出生の秘密から、育ての母親は、クルエラ(エステラ)の特性を封じ、
人と同じように社会で生きていけるよう望んだ。
だがしかし、おとなしく社会に適合していける性質ではなく、
学校を退学になり、育ての母を無くし、
孤児になったことで、
クルエラは自由になった。
誰も守ってくれる大人はいないが、仲間がいて、
日々社会のタブーをすり抜けては、捕まらずに生きていく。
みんなと同じ制服に身を包むこともなく、
守るべきルールもなく。
そんな生き方が身についていき、相変わらず盗みで生計をたてる日々だったが、仲間のはからいで(非合法なアシストだが)、
ファッション業界に忍び込む。
そこでは、掃除要員として真面目に涙ぐましい働きぶりをみせる。
が、なにがなんでもデザイナーの仕事にありつきたい彼女にとっては、おとなしく掃除だけしていられるはずもなく、
やっぱりここでもはみだし、上司に目をつけられてしまう。
けれども秘めた彼女の才能を見出す人物がいたのだ。
クルエラの才能を見抜いた人物
カリスマデザイナーのバロネス。
まさに「プラダを着た悪魔」のように仕事一筋で、
人間の血が通っていないような冷酷さを見せる人物。
だが、クルエラが勝手にやってしまったブランドのウィンドウディスプレイをひと目見て、才能を見出し、部下に抜擢した。
憧れのファッション業界ではじめて自分の価値を認めてくれた人。
クルエラにとっては命の恩人と言っても過言ではない。
自分に、盗み以外の仕事で生計を立てるという道をくれた人なのだ。
この70年代のロンドンという時代に
女性が業界のトップに君臨する。
バロネスは、無慈悲な人物に描かれているが、
仕事で男性に撃ち勝っていくには、あのくらいの強さが必要だったというのもまた事実ではないかと思う。
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きゅうりパックが暗示すること
分刻みのスケジュールをこなすバロネスが、ランチ休憩のときに
「9分だけ」休むと言って
まぶたの上にキュウリのスライスをのせるシーンが有る。
なんの効果があるのかな?と調べてみたら、美白・保湿の効果とともに、ほてりをクールダウンさせるそう。
仕事でめまぐるしく回転した頭脳とともに、沢山のデザインを凝視している彼女には必要な休息法だったんですね。
ところで、なんだかこのシーンに見覚えがあるなと思ったんです。
それは、「キューティーブロンド」でした。
父親殺害犯となってしまった娘の秘密をひた隠すあの母親が、
エルが聞き込みに言ったエステでしていたやつ。
なんだか、「きゅうりパック」=悪役の母親というイメージの、オマージュだったりするのかもしれません。
悪役から生まれた悪役
結果的に、クルエラの育ての母親を殺したのは、自分のファッションの才能を初めて見出してくれたバロネスだった。
さらには、そのバロネスこそが、クルエラの生みの親だった。
無慈悲な毛皮好きのクルエラとなる未来と
自分の道を阻む者を始末することを厭わないバロネスが重なります。
クルエラにとってバロネスとは、
・産み落とした瞬間に自分を捨てた人。
・それでもこっそり自分を育て愛情をかけてくれた育ての母親を殺した人。
・自分の憧れるファッション業界の尊敬するデザイナー
・自分の才能を初めて認めてくれた人
会ってみたくて、認めてもらいたくて、一つ一つ叶えてきたのに。
自分の存在。育ての母親。
二重にも命を奪われていた。
本当に無慈悲なクルエラならば、バロネスの命まで奪ってしまいそうなものですが、社会的制裁に舵を切ります。
それは、自分を信頼してくれる仲間の存在が大きかったでしょう。
このクルエラが何故毛皮マニアになったのか?
この実写版映画のクルエラという人物は、
ダルメシアンを殺さなかったし、
『101匹わんちゃん』ほどのサイコではありません。
けれども、この話と『101匹わんちゃん』の話の間には
まだ描かれていない話がある。
現在進行中の続編でそのあたりが描かれるとなれば、もっとヘビーな話になりそうです。
結局命は永らえているバロネスとの再びの対決。
母親という壁。
自分をこの世に生み、自分を消したという矛盾した存在。
その母親バロネスが愛するダルメシアンを毛皮にするということが
母親への復讐なのか。
そして、悪役の前日譚というならば、この母親バロネスこそ
どうしてこのような人物になっていったかというところにも興味がでてきます。
「サイコ」は遺伝?それとも後天的きっかけがあるのか。
【悪役】に理由と目的を見出す時
結局は、どちら側の立場にたっているかによって
正義も悪もひっくり返ってしまう。
大人数に迷惑をかけたほうが悪なのか。
たった一人でもどん底に突き落とした方が悪なのか。
孤児になったクルエラに手を差し伸べる大人がいたらどうなっていたか。
ファッションという自己表現は、誰にも気づかれない闇の世界でひっそりと生きてきたクルエラにとって、堂々と人生を歩いて、自分はこういう人間だと表現していくための手段。
学校生活になじめない頃から、自分を表現したい欲が強かった。
まっとうな道を歩きながら、ファッションの世界でも活躍するということは可能だったのだろうか。
それともファッションの才能は、自分の力で生き抜くしかない不遇の日々によって磨かれたものか。
バロネスに復習すると決めた日。
クルエラに「サイコ」のスイッチが入った。
復讐とは、襲いかかった悲劇に押しつぶされないための、
自己を守る戦いでもある。
傷つけられてそのまま倒れるのではなく、自分を傷つけた相手に対して行動を起こすことで、前に進む力が生まれる。
多かれ少なかれ、対人間、対状況、いろんな形で人は復讐することがある。
自己が張り裂けそうな悲劇に見舞われた時、歯を食いしばって立ち向かうことを決めた人。
それが【悪役】なのか【ヒーロー】なのかは受け取る側の問題だ。
柴咲コウが歌う日本版エンドソング「コール・ミー・クルエラ」
主演のエマ・ストーン演じるクルエラの日本版声優を務めた
柴咲コウさんが歌う日本版エンドソング「コール・ミー・クルエラ」も、本作の大きな魅力です。
もう何作も映画主題歌でヒットをだしている柴咲コウさんの歌声。
一流の俳優ゆえの主人公への理解と共感
そこに乗せていく自分らしい表現。
クルエラでの吹き替えに対して「20年以上前の自分を掘り起こすような感覚」と語っていた柴咲さん。
役者と歌手と別世界を行き来して活動していた頃のもどかしさ。
慣れないインタビューと、役者が作品について語ることの難しさ。
自分の理想と、そこへのギャップ。
それでも目指し続けるという反骨精神。
そういった今はもう乗り越えてしまっているような感情も
20代の頃は真剣に悩んで葛藤していた。
そんな感情をこのエンドソングにのせている。
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クルエラのように立ち上がれ
少なくとも、クルエラは怠惰ではない。
自身の果たすべき目的「復讐」のために
遊ぶ暇もなくその計画に時間を費やし、手間ひまかけて準備をして
逃げることなく、集中してやり遂げる。
その真面目さに、有限実行力に、やはり尊敬を抱いてしまう。
逆境が襲いかかったとしても、めそめそ打ちひしがれてなんかいない
流す涙さえ、全て感情を出し切って、再び立ち上がるため。
唇に不気味な笑みをたたえて、成すべきことをその目に捉えるクルエラは、凛として歩き出す。
その姿に、私もまた、悲劇に潰されるよりは時に悪役になってでも、
立ち上がってみせよう、そう誓うのだった。
プリンセスへと変化。王子様のキスの効力も無力化され(一目惚れ運命論、同意なしのキスはNG)主体性を持った人格へ。これを読んでからもう一度シンデレラを見ると沢山の細かい伏線に驚く。そしてアナと雪の女王とマレフィセントでラブストーリーから女性の連帯へとテーマが変化。王子様も王様もただの
— すばら/読書者 (@subarashi_blog) September 8, 2022
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